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MANIFESTO

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GRAMHAUS宣言

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杉月 望 / SUGITSUKI nozomu

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July 1st 2024

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 私達は、も抜けの世紀に乗っています。

 それは単なる脱皮や換羽を意味するのではなく、そうであればむしろ安直な進歩や発展、成長を、つまりは進化を暗示できたでしょう。ですが、事態はそう単純ではありません。

 変化は時間につきものです。変質も変容も避けられない。むしろ、変性こそが時間の尺度です。

 変貌を遂げた世界こそ一つの兆候であり、変異。

 少なくとも、20世紀後半という比較的安定した時代を平和裡に過ごしてきた方々にとってはまるで理解できない状況になっているということ、というより既になってしまったという端的な現実はもっと広く共有されて良いでしょう。

 現代に生きる私達が置かれた状況は、これまでの情勢とはあるゆる意味で異なり(もちろん、そうでない時代がなかったとはいえ)、少なくとも20世紀と同じ観方で捉えることは全く無意味でしょう。

 日常生活はスマホが無ければ成り立たず、それ以前の日々を想像することすらできません。

 Starlink衛星が軌道を覆って新たな星座となったからには、その光は星景写真に映り込んでしまう。

 2014年に19世紀的感覚によってクリミアが併合されてから既に10年の時が経過しています。

 私達は日頃、素朴な知覚という素材で出来た認識というテーブルの上で思考というボードゲームを真面目に組み立てているわけですが、その下敷きとなるテーブルクロスか、ひょっとしたら土台であるテーブルそのものがひっくり返されているのです。

 根本的なルールの変更、前提条件の刷新、大規模な地殻変動。

 これらはなにも、複雑な最先端の科学技術や、小難しい世界情勢といった、面倒くさい、人によってはどうでも良い、気持ちの悪い領域に限りません。

 私達が日常的に“摂取”するサブカルチャーは言うに及ばず、美術館や劇場で対面する大文字の“御”芸術でさえ、デジタル化、オンライン化は既に果たされています。

 歴史的な名画や貴重な図像資料の多くを私達は自宅にいながら鑑賞できるようになりました。

 権利関係の問題がクリアされた古典的な映像作品だって視聴することが可能です。

 それだけでなく、かつては書庫の奥底へ大事にしまわれていた古文書にさえ、高額な渡航費用を支払ずとも容易くアクセスできるのです。

 そういうことで、映画館はすっかりジェットコースターになりました。

 音楽を聴くならやっぱりライブイベントへ出かけないと!

 CDであれレコードであれ、私達は昔、謎の円盤を使って音楽や映画を視聴していたそうです。ストリーミングサービスにサブスクすればいいのにね!

 そんな他愛のない冗談はともかく、この現代社会において私達の可処分時間の大半を持って行ってしまうのは、兎にも角にもショート動画です。

 それが視覚表現であれ、聴覚表現であれ、触覚表現であれ、それを語り、象り、表現する形式を広く言語とみなすのであれば、映像と音楽は依然としてキラキラと光り輝く言葉です。舞台芸術こそが総合芸術であった時代から現代に至るまで、その魅力にいささかの陰りも感じられません。

ただ魅力的に過ぎる作品が増え過ぎたばかりに、短くまとめてもらえないことにはとてもではないが見切れない。ただそれだけです。

 重厚長大な「作品」から、よりキッチュで親しみやすく、お手軽なエンタメに。

言葉は変わるものです。

 今時、誰も紫式部やシェイクスピアの言葉で語りはしません。

 ホメーロスや琵琶法師の弾き語りは現代のテンポには到底堪えられないでしょう。

 私達は感性をシェアしているのであって、歴史観を共有しているわけではありません。

 楽しいことを、面白いことを、明るい話をしていたいだけで、難しいお勉強がしたいわけではないのです。

 歴史は終わったのではなく有耶無耶になって、薄味に広がり、メリハリなく延びているだけ。

 あらゆるものが双方向性どころか多方向に繋がり合う今の世の中、垂直方向の、タテ軸の、上からの考え方はそぐわない。もはや時代という表現すら、本来は適切ではないのでしょう。

 せめて歴史観ではなく、世界観。それだって掠っているかどうか微妙なラインです。

 私達を共通して貫く一つの筋、一つの夢、一つのモチベーション。

 近頃、見かけなくなって久しいものです。啓蒙の時代のような明確な対決姿勢は見られません。

 それを今更欲しいとは思わない。押しつけがましい、つよめの思想は、春と夏が抜け落ち、雨季と乾季だけになった今日では蒸し暑いだけです。

 なにやらスマホ以前、ネット以前、SNS以前にはそういう世界があったらしい。 

 そんな空中都市の住人からのおぼろげで、漠然とした、あまり関心のない俯瞰。

 それは進歩でも、成長でも、発展でもなく。

 ただ皮が脱げているだけ、羽が生え換わっているだけ。でも、それで十分です。

 英語ではこれらをまとめてmoultingと総称します。いわば「も抜けの殻」の「も抜け」です。

 あるいは刺胞動物のポリプが横分体形成をするかの如く、同時発生的な分節を行い、お互い通じているようで実は何一つ噛み合っていないディスコミュニケーションの積み重ね。

 いつか皆が分かり合える。誰もが皆、自分に同意してくれる。

 理解をするのではなく、理解してもらいたい。そう夢見るのは自由だし、何より無料です。

 私達はそれを幻想だと言いたいのでありません。そこに意味はないと知っているだけです。

 情報が砂粒のようにあまりにも多く、細かすぎるが故の知識の砂漠化、無明世界。

 目も開けていられないほどキラキラと眩しいものばかりだからこそ暗黒時代。

 To the happy fews.

 スタンダールが思い描いた世界は意外にも手の届くところにあります。

 私達は新しい中世に乗っています。

 経営者という荘園領主が経営する企業という名の現代の私領で、小作農として毎日あくせく働く日々。時折(人によっては頻繁に)SNSやアプリの通知が教会の鐘の音となって一日を分節する。

 一人一人が必ずしも手首に時計を身に着けることもなくなり、その代わり掌のスマホを覗けば、世界のどこかでなにか面白いことをしている人たちの楽しそうな表情が目に浮かびます。

 スマホの中身も、アプリの仕組みも、ネットワークの成り立ちも黒い箱の中にしまったままですが、別に使う分には困りません。先人が創り上げた偉大にして巨大なシステムも、とてもではないが全体をつぶさには把握しきれない微小技術の結晶も、その効用の上にあぐらをかくだけならなんとかなるものです。

 私達は巨人の肩の上に乗って、より多くを、より遠くを、見渡すことができる。

 ちょうど疫病が蔓延ったところでもあります。私達が生きるこの世界を中世になぞらえるアナロジーの材料は出揃っています。神への信仰は貨幣への信用であり、あまりにも大雑把な功利主義という教会権力の教義に対しては、時に抵抗(プロテスト)の精神を育まれながらも、時に改革を迫るのです。

 そして、現代が新たな中世であるならば。

 17世紀に天文学の成果を嚆矢として(西欧における)世界観が一新された科学革命を、14世紀から16世紀にかけて特にイタリアを中心に興った人文復興運動が準備したように。

 そのルネサンスに先駆けて、13世紀には行商から為替手形など文書を用いた遠距離取引への移行が進み(現代でもアプリを使ったキャッシュレス決済は当たり前になりました。)、都市には商人たちが定着し、急増した都市人口へ向けて通俗的な内容の説話本(ファブリオー)が数多く流通していました。

 そのような民間の流行と並行して、9世紀頃から12世紀にかけてヨーロッパ各地で、アラビア語・ギリシャ語の文献がさかんにラテン語へ翻訳されていたことも見逃せません。21世紀の現在でも2000年以上前に書かれた古典作品へ書店やWEB通販を通じて手軽にアクセスすることができるのはこのためです。

 このように中世においても、人々はコーデックスとスクロールの海に親しみ、活字が発明される以前から文字のプールに入り浸っていました。一方、現代と異なるのは、当時のビーチが遊泳可能な範囲は明確に区分されていたことです。

 何によってか? それは言葉であり、言語によって。

 当時、王侯貴族であれ教会関係者であれ、上流階級であれば習得していなければならなかった言語とはラテン語です。それは古典古代から受け継がれる格式の高い言語であって、書物にしたためられるべき書き言葉、筆記言語としては唯一のものとして見なされていました。

 このことは、世俗権力に携わる人々や学識者にとっては出身地域を問わない共通語として一面では有効に機能しながらも、ラテン語に知らずに育ち、生きていくことになる一般の人々にとっては最先端の知見にアクセスすることができない障壁ともなっていました。むしろ、日常的に用いられる口語的な言語は高尚な信仰・政治・学問に相応しくない俗なる言葉として扱われていたのです。

 現代においてラテン語の地位にあるものはなんでしょうか。

 国際社会の共通語として、学術論文の筆記言語として用いられるのは主として英語です。だからこそ日本国内でも物申す人々は英語教育の重要性を訴え続けています。

 しかし、私達が着目すべきは、イングランドが9世紀の頃から、歴史書に限らず教典でさえ、ラテン語から自分たちの言語である英語への翻訳に勤しんできたことでしょう。ノルマン・コンクエストを経ても尚、支配的な言語におもねず、しかし外国で培われた意義深い、より先進的な議論・研究の成果を粘り強く自分たちの日常語に落とし込み、自らの知的世界へ取り入れていく。

 その連綿と受け継がれてきた精神活動を鑑みれば、現代において英語がなぜ世界で主要な地位を占めているかは案外納得できるものかもしれません。

 思えば、ルネサンスであれ、科学革命であれ、その知見が詳らかとされたのはラテン語で書かれた書物によってではなく、それが日常語で書かれた出版物であったからこそ、より広範な影響力を持ちえたのです。

 そもそも、出版活動が事業として成功し、世に定着するためには、それだけの受け手がいなければなりません。これは現代でも同じことです。非凡なる創り手がどれだけいたところで、それを受け止める側がどこにもいなければ、何の活動にも成り得ません。

 もちろん、当時の教会関係者や学識者にとって、知識の所在を限定することにはメリットがあったでしょう。優れた知見や技術を自分の利益に奉仕させるようとする輩は古今東西どこにもいるものです。知識の悪用を防ぐために、心ある者にのみ知へのアクセス権は開かれているべき。それはもっともらしく聞こえはしますが、多分にポジショントークでもあります。知の領域が制限され、一部の人たちに独占されてていたのでは、現代のような文明社会は到底成立し得ないわけですから。

 言語化、という言葉は今日では盛んに用いられ、人口に膾炙しています。

しかし、なぜ言語化しなければならないのか。どうして言語化が必要とされるのか。言語化することの意味は何なのか。それらの説明を十分にできる人はどれだけいるでしょうか。言うなれば、言語化の言語化は十分に為されていると言えるのか。

 当初の観点に立つのであれば、それが如何なる種類の芸術もしくは現代的なアート、つまり絵画やエンクレーブに写真、彫刻やインスタレーション、演劇、オペラ、映画、あらゆるジャンルの音楽であっても、それはそれとして表現されなければならなかったらこそ、そう表現されているのであって(そうような表現なのであって)、それはそれ以外を表わすことはないし、そうであればそれを言語化しようとする試みはただ単に無粋であって、センスのない行為なのではないか、ということです。

 これについて、中世というアナロジーを通して観てきた私達は一定の解答を用意することができます。

言ってみれば、中世とは、古代末期に分断された上流のラテン語表現を、下流の日常語表現へと翻訳し、更に一歩踏み込んで日常語によってこの世界を理解し、記述し、思考することで、かつて分かたれた天上の世界と、一般の人々が実際に足をつけて歩く大地とを渾然一体なものとして昇華し、新たな世界観へとつなげる一連の試みであったのです。

 今や多種多様な形式、形容、形態において、数多くのメディアが創作物を表現する世界にあって、その上流から流れ込む数えきれない支流の数々を、文章によって豊かな大海へと昇華する。

 私達が生きる21世紀を新たな中世とするならば。

 私達のこの世界こそが、次のグランドスウェルを生み出す台風の目となるかもしれません。

 私達GRAMHAUSは三人と一組で結成した、文章表現を基軸とする制作ユニットです。

 私達は今という時代に敢えて、文字を用いた、文章による、広義の文学的表現(この迂遠な言い回しはむしろ文学という逃げ口上へ容易に堕しないための自戒でもあります。)によって新しい世界を見出したいと考えます。

 果たしてユニットの方向性が実際にどうなるのか、できあがる制作物がどのようなものになるのかは率直に言って、まだ見えないところも多くあります。

 ですが、アストロラーベという今となっては一見して、それが何なのか、何をするものなのか、何のためのものかよく分からないような、そんな天体観測のデバイスでも、かつては修道院の名もなき修道士や、大洋へ繰り出した船団の航海士たちが地道にその使い方を覚え、そのマニュアルを時に日常語で書き継いでいたように。

 それだけでなく、そのような機械を制作可能な職人がいて、そのような工房があったからこそ、正確な時計も精密な観測機器も世に現れ、それらが時を測り、暦を作り、航海の標となったように。

 世界をより詳細に、より多角的に、より本質的に把握しようとする志向性こそ、人の本性。

だからこそ、言葉という、表現という、制作という広すぎる海へ敢えて漕ぎ出す。

 四者四様それぞれ方向性は違えど、その基調においてどこか通底する志を抱いた知古を得られたことは、現代社会にあって、とても幸運なことです。

 私達の活動によって、私達が制作するであろう新たな表現によって、少しでも皆さんの生涯のうちに何がしかの印象を残すことができるのであれば、それは私達にとってこの上ない存在意義になるでしょう。

 そして、それこそが私達のGRAMHAUS宣言なのです。

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